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せきぐち – 2014年10月号

2014年10月31日

シドッチ神父帰天300年によせて

地下鉄有楽町線の江戸川橋駅そば、目白通りから神田川を越えて茗荷谷方面に向かい、地下鉄引込線の高いコンクリート壁に添って進むと、高架下のトンネル前に出ます。その左手に伸びる坂は「キリシタン坂」と呼ばれています。坂を上り切り右手にしばらく進むと、閑静な住宅街にひっそりと「都旧跡 切支丹屋敷」と刻まれた碑が立っています。それが坂の名の由来です。

せきぐち 2014年10月号

切支丹屋敷は、もとは初代切支丹奉行である井上筑後守の下屋敷でした。後にその敷地内に牢屋が建てられ、棄教した司祭が収容されました。遠藤周作の『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キャラもその一人です。井上の尋問と拷問を受け棄教し、日本名・岡田三右衛門を名乗らされたキャラは、42年もの長きにわたりキリシタン屋敷に幽閉され、排耶書(キリスト教の教理を否定する書物)を執筆させられました。その孤独と悲しみは察するに余りあります。

そのキャラの死の23年後、宝永5(1708)年に、鹿児島の屋久島に一人の宣教師が上陸しました。最後の伴天連と呼ばれるシドッチ神父です。このシドッチ以後、鎖国下の日本への宣教師の来訪は途絶えます。

1549年のフランシスコ・ザビエル来日以降、多くの宣教師が日本を訪れましたが、彼らはいずれも、イエズス会やフランシスコ会といった、大修道会の会員です。しかし、シドッチは教区司祭でした。

屋久島で捕らえられたシドッチは、長崎を経て江戸の切支丹屋敷へと連行されました。この屋敷でシドッチを尋問したのが、一流の儒学者、政治家であり、碩学として歴史に名を刻む新井白石です。

白石は、シドッチの来日がヨーロッパ諸国の領土拡張の野心とは無縁であることを理解し、さらに、シドッチの有する豊かな学識に対し敬服の念すら抱きました。しかし、司祭が熱心に説くキリストの教えについては、まったく理解することができませんでした。天地創造もイエスの復活も、彼にはすべて馬鹿げた戯言としか思えませんでした。イエスの十字架のあがないなどは、「嬰児の語に似たる」と、にべもなく切り捨てています。しかし、白石は宗教的なセンスを持ち合わせていない人ではありません。時代が違えば、状況が異なれば、この二人の邂逅は多くの実りをもたらすものとなったことでしょう。

近代的な人権意識を有していた白石は、シドッチの処分について、処刑することは簡単だが下策、命は助け囚人とすることはもっとも難しく中策、本国への送還は難しいようだが実は簡単で、それが上策だと幕府に進言しました。しかし幕府は白石の想いを理解せず、彼を囚人として留めおく中策を採用しました。

幽閉とはいっても、当初シドッチはそれなりの待遇で切支丹屋敷に置かれました。そして、長助、はるという夫婦が従僕として付けられたのですが、彼らの存在がシドッチの運命を大きく左右することとなります。

正徳4(1714)年、長助、はる夫妻がシドッチから洗礼を受けたことを告白したため、幕府はシドッチを屋敷内の地下牢に押し込めます。そして彼は、そのまま没してしまうのです。江戸後期の地理学者・間宮士信の『小日向志』には次のように記されています。「正徳四年午二月長助はるへ宗門を勧めけるによりて禁獄せられたるが同しき十月廿一日四十七歳にして没せり」(東洋文庫『西洋紀聞』所収による)。この幕府の決定に白石は関与していません。47歳での宣教師の死は、白石にとっても無念であったに違いありません。

今年は、このシドッチ帰天から300年の節目の年にあたります。シドッチの生涯における新井白石との出会い、そしてその死を通して、日本におけるキリスト教のインカルチュレーションについて、改めて考えてみる機会とするのもよいのではないかと思います。

 

(「せきぐち」編集部・奴田原智明)

 

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