お知らせ

一トンの塩を舐める

2020年10月06日

フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父

今年は復活徹夜祭で洗礼を行うことができませんでしたが、7月26日年間第17主日のミサのなかで、洗礼・堅信式を執り行うことができたことを素直に喜んでいます。ひとりのキリスト者として、新たに洗礼を受けられた方たちのキリスト者としての出発点に立ち会えたことに感謝しています。わたしたち関口教会も「キリストのからだ」の共同体として、新しい仲間が共に歩むことは心強いものがあります。わたしたちの共同体は寄せ集めの烏合の衆でもなければ、地元の名士が集うロータリークラブでもありません。パウロは次のように告げていきます。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26-28)

このことは、見た目でわかるようなものではないでしょう。すぐに良く効く薬のような効果が期待できるものでもないでしょう。だけれども、この言葉をパウロは確信をもって語っていきます。わたしたち自身のもつ様々な社会的な属性を超えて、「キリストを着ている」者として、わたしたちひとりひとりがいることを確信しています。

ミサでは福音をともに聞き、「キリストのからだ」である聖体をともに分かち合っていきます。教会はイエス・キリストとともに食卓を囲む共同体として互いに奉仕し合いながら成長していきます。その成長のプロセスは掟を忠実に守るだけでも、学問的な知識の積み重ねだけでもなく、もしかすると、一トンの塩を舐めるようなものかもしれません。

作家である須賀敦子さんの『塩一トンの読書』(河出文庫)の冒頭に次のような逸話がのっています。須賀さんがミラノで結婚されて間もない頃、姑から「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言われたそうです。須賀さんが文学の古典といわれる作品につきあっていくなかで、この塩の話を思い出すそうです。

「古典には、目に見えない無数の襞(ひだ)が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞(ひだ)がふいに見えてくることがある。しかも、一トンの塩とおなじで、その襞(ひだ)は、相手を理解したいと思いつづける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる」(前掲書)

須賀さんのこの古典に対する感覚は、キリストを信じる者の集まりである教会にも当てはまるように私には思えます。長い時間をかけて、ともに悲しみ、ともに喜ぶ経験をしていくなかで、共同体の信仰がもっている見えなかった襞(ひだ)が見えてくるようになるのではないでしょうか。隠されていた襞(ひだ)がみえたとき、ひとりひとりがキリスト者としてしっかりと成長していくのでしょう。

聖霊の働きの内に、わたしたちが「キリストのからだ」として、ともに歩み、神から招かれている者の共同体を築いていくことができますように。