お知らせ

創造のみわざを物語る時

2020年06月19日

主任司祭 フランシスコ・ザビエル 天本 昭好

ちょうど2月の上旬にミャンマーを訪問していた時に、ホテルのテレビで横浜に帰港したクルーズ船で感染者がでたとのニュースを知りました。帰ってきてからも対岸の火事であるかのようにしか思えず今の状況を予想だにしていませんでした。世界は今、新型感染症の脅威の中で過ごしています。それまで当たり前のようにしていたことが、突然に変わってしまい、当たり前が通用しなくなっていく社会がもたらされています。今回の新型コロナウィルスによるパンデミックの出来事はわたしたちに何を悟らせようとしているのでしょう。

日本を含めて世界では、様々な情報が入り乱れ、社会が劇的に変容していくかのような雰囲気のなかで、それぞれの社会で等閑にしていたことが様々なかたちで表面化しているのかもしれません。そんななか誰も来ない教会の司祭執務室で何気にTwitterを見ていたらこんなつぶやきが目に留まりました。

 

“飛行機で地球は小さくなり、
インターネットでもっと小さくなり、
もう大きくなることはないと思ったのに、
コロナでいろんな国が遠くなり地球が大きく感じる。”

 

誰がつぶやいたか書き留めなかったので、引用元を明示できなくて申し訳ないのですが、何か今の世界の一面を捉えている詩のように私には感じます。とるに足らないはずの小さなウィルスによって、手の届く近さにあったものが、物理的な距離によって遥か彼方に遠ざかってしまい手が届かない感覚がもたらされていくようです。この感覚の背後に、わたしたちが当たり前としていたものが、いとも容易く壊されていく風景が見えるような気がします。

そんななかで、その当たり前に執着しすぎたとき、時として人は極端な考え方になってしまうのかもしれません。もしかすると、ノストラダムスの大予言的な滅亡云々を喧伝していく人たちもいるのかもしれません。それこそヨハネの黙示録を引き合いに出しながら、終末論的にこのパンデミックの出来事を捉える人もいるかもしれません。一方でメディアでは新しい日常、アフターコロナ、ウィズコロナなどという言葉が産み出され、何もかも新しくしないと生きていけないことを強調しいく人たちもいるのでしょう。敢えて言えば、そのような人たちは以前の当たり前に執着して判断しているだけなのだと私は思います。

荒波が如何に襲いかかろうと、わたしたちに共感していく方がいること、わたしたちが一人で過ごさなければならない時であっても、絶えずわたしたちを励まし支えてくださる方がいることを、わたしたちは思い起こしていきたいものです。

聖書がそのはじめに天地創造の物語を置いていることを踏まえて考えるならば、神がご覧になって「善し」とされた世界がわたしたちの世界です。劇的な出来事がこの世界を襲って、私たちの暮らす世界がいとも容易く混沌(カオス)になっていったとしても、その世界に神の言葉がもたらされて創造のみわざがはじまっていきます。創造のみわざのなかにわたしたちが生きていることを思い起こしていく時が今という時なのではないかと感じています。

受難と十字架上の死、そして復活、昇天、聖霊降臨と、本来なら、皆さんと共に四旬節から復活節にかけての典礼の中で追体験していくこれらの出来事は、たとえわたしたちひとりひとりが自分の弱さから出発して右往左往していたとしても、そのわたしたちに共鳴し、わたしたちが立ち上がっていくことを促してくださる方がいることを物語っていきます。それは、わたしたちのうちにあるものを外在化していく物語、客観的な物語でもあります。

過去の出来事を単にトレースしていくだけの昔話や神話の類の物語なのではなく、詰まるところ、この物語は、わたしたちが神の似姿としてキリストとともに歩んでいくなかでわたしたちが紡いでいく物語になっていきます。聖書の語り手は聞き手であるわたしたちが今を生きる中で神の言葉を具体的に表現できる者として、呼びかけられていることを訴えかけていきます。

このように考えていくと、パンデミックという100年に一度は訪れると言われている今という時は、創造のみわざを思い起こすと同時にそれを物語る時になっていくのでしょう。

最後になりましたが、このパンデミックの状況下にあって、いのちを守るために懸命に働いてくださっている医療関係者をはじめとした多くの職種の方々のうえに神様の豊かな祝福がありますように。