お知らせ

教皇、それは橋を架ける人、出会いの文化をはぐくむ人

2019年11月16日

せきぐち11月号巻頭言より

西川神父

11月23日から26日の日程で、いよいよ教皇が38年ぶりに日本に来られます。わたしたち日本の教会が教皇によって勇気づけられ、励まされ、世界の人々とつながっていることを確かめていくことができますように心から願います。

わたしたち教会はローマ教皇と呼んでいますが、日本の社会では一般的にローマ法王という呼び名で報道されていきます。主権国家としてのバチカン市国と日本が1942年に国交を結んだ時の外交上の表現が今も続いています。ローマ教皇には歴史的に様々な呼称があり、ローマ司教、キリストの代理者、神の僕の僕等、それ以外にも数え上げたらきりがないようにも思います。漢字では法王にしても教皇にしても、天皇、皇帝、王等の言葉の響きから雲の上の人のような正統な権威をもつ者のイメージだけがどうしても先行してしまいます。ローマ教皇はラテン語ではロマーヌスポンティフェクスRomanus Pontifexとなります。Romanusはそのまま「ローマの」を意味しますが、Pontifexは語源から考えれば、「橋」を意味するponsと、「作りだす」を意味するfexからなっている言葉です。そこから教皇という呼び名は橋を作りだす、橋を架ける者としてその意味を読み解いていくこともできるでしょう。イエスと出会った人たちから使徒が選ばれ、使徒たちと出会った人たちのうちに教会が形づくられ、その教会と出会った人たちの輪が今の教会に受け継がれています。たとえ、どんなに社会のなかに目に見えない分断された壁や溝があったとしても、それを乗り越える橋を架ける役割が教皇その人の役割としてあるともいえるのではないでしょうか。

教皇は様々な機会にメッセージを発信されつづけています。ここで紹介しておきたい説教があります。ちょうど、3年前の王であるキリストの祭日の説教です。この時は、いつくしみの特別聖年の閉幕のミサでもありました。いつくしみの特別聖年の開始にあたって教皇は「誰も神のいつくしみから排除されることはない」と告げていきます。閉幕にあたっての教皇の説教の一部を紹介したいと思います。

「神の記憶はわたしたちと違って、犯した罪をとどめておかず、被った不正義を数え上げてはいません。神は罪を、しかもわたしたちの、わたしたちそれぞれの、神が愛しておられる子どもたちの罪を記憶しておられません。それにまた、やり直すこと、立ち直ることはいつだって可能だと信じてくださっています。そうした、開かれて生きている記憶の賜物も願いましょう。和解とゆるしの扉を決して閉めずにおき、希望に向けたあらゆる可能性を開いて、悪意や不一致を乗り越えることのできる恵みも願いましょう。神はわたしたちを、その資格を顧みず無限大に信じてくださるのですから。わたしたちもまた、他の人々に希望を注ぎ、機会を与えるよう招かれているのです。」(『教皇フランシスコ講話集4』p.250 ペトロ文庫 2017年)

ここで教皇フランシスコは神がわたしたちを信じてくださり、わたしたちもまた、神がそうであるように、他の人々に希望を注ぎ、機会を与えることができる者として呼ばれていることを強調しています。教皇フランシスコが来られることを単に熱狂的にフィーバーするのではなく、ともにキリストを信じ、ともに希望をもって歩む者としてその時を分かち合うことができれば、新しい気づきがもたらされていくことでしょう。これから日本を訪問される教皇フランシスコが語られていく一つ一つの言葉を注意深く祈りのうちに聞いていきたいものです。わたしたちが教皇の旅をともに分かち合うことができますように。

 

主任司祭 フランシスコ・ザビエル 天本昭好神父