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せきぐち – 2011年11月号

2011年11月26日

最後の引っ越し

主任司祭 山本量太郎

工事のさなかに

数年前、カテドラルで構内再構築工事が行われていたころ、私の前任地、小金井教会では同じ構内にある桜町病院の建て直し工事が真っ盛りであった。
狭い敷地の中での全面建て替えは確かに大変だった。でも、工事自体は建設会社の人たちがみんなやってくれる。私たちにとってむしろ大変だったのは、その工事にあわせて引っ越しをすることだった。なにしろ、古い建物を壊す前にまず立ち退き、新しい建物ができたら戻ってくる、という具合に、多くの人は2回引っ越しをせざるをえなかったのだ。

来し方を振り返り

そんな引っ越しの光景が目にはいったあるとき、私は思った。自分はこれまで何回引っ越しをしたかな。そして数えた。調布で生まれて立川で育ち、世田谷区にあったカトリックの大学生寮に入り、神学生になってから前半は千代田区の哲学院、後半は練馬区の神学院に住んだ。司祭になって西千葉教会、柏教会、喜多見教会と歴任した。その後は中央協議会の事務所勤め、その間、住まいのほうは真生会館、永代働く人の家、日本カトリック会館とかわった。

行く末を思うと

そして、いつしか思いは先のことへと移っていった。自分はこれからいったい何回引っ越しをするのだろうか。そう考えているとき、突然、あることで頭がいっぱいになった。それは、自分がいつか必ずすることになる「最後の引っ越し」のことだった。私はその時、地上の道程の最後にくること、すなわち「死」を初めて「引っ越し」という言葉で考えたのである。

人生そのもの

そもそもパウロも、「神によって備えられている建物、天にある永遠の住みかがある」と言っているではないか(2コリント5・1参照)。キリストも、「私の父の家には住む所がたくさんある」と断言しているではないか(ヨハネ14・2参照)。死は、天にある永遠の住みかへの引っ越し、住む所がたくさんある天の父の家への引っ越しなのだ。

だから、引っ越しは人生につきものどころではなく、人生そのものである、そう言い切ってもいいとさえ思うようになった。生まれた家で生涯過ごし、看取られていくような人生を送る人も、最後の引っ越しだけは必ずすることになるのだから。

持っていけるもの

身一つならそれほど大変ではないかもしれない。引っ越しを重ねるたびにそう思い、持ち物を増やさないように心がけるようになった。しかし、人生にとって最重要事は、最後の引っ越しの時に持っていけないものに執着することなく、持っていけるものを大切にして生きることではないだろうか。
「自分のために集めたものは何一つ神さまのもとに持っていくことはできない。逆に、他人のために差し出したものを持っていくことができる」。子どものころ、教会の葬儀で聞いた説教の言葉が50年たった今も心に残っている。

 

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せきぐち2011.11号(計4頁)

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