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せきぐち – 2013年1-2月号
2013年03月14日
新年メッセージ②キリスト教一致祈祷週間に寄せて
主任司祭 山本量太郎
一致祈祷週間のさなかに
今から4年前、キリスト教一致祈祷週間中の2009年1月20日、私の前任地、小金井では市内11教会の牧師・司祭が一堂に会し、「小金井市キリスト教ネットワーク」(略して、KCネット)の初会合が持たれた。私はその日の会場だった日本キリスト教団小金井教会からの帰り道、これからのKCネットの歩みをあれこれ思いめぐらしていたのだが、ほんとうに突然、「あと8年で2017年がやってくる」という声を聞いたような気がした。
宗教改革から500年、東西分裂から1000年
「1517年、ルターの宗教改革」と、その年号だけは学生のころから暗記していたが、なんと、500年という歳月がたとうとしているのだ。カトリック教会はその年が来たとき、まさか素通りをするようなことはしないだろうが、それではいったい、どのような迎え方をするつもりなのだろうか。
その後、幾日もしないうちに、今度は「2054年」という、もう一つの年号が繰り返し頭に浮かぶようになった。キリスト教が、東方のオーソドックス(正教会)と、西方のカトリック(公教会)とに分裂してしまったのが1054年。それから1000年という年も今世紀半ばにはやってくるのだ。
一致こそ最大の課題
それからというもの、21世紀はキリスト教一致の世紀であらねばならないと、しばしば考えるようになって現在に至っている。
振り返ってみれば、キリスト教は11世紀に東西が決別し、16世紀にカトリックとプロテスタントが別れ、結局500年ごとに大分裂を2回繰り返してしまったのだ。決して3度目の大分裂を起こしてはならない。逆に、一致への筋道をたてて実践していくことこそが、21世紀のキリスト教の諸教派に課せられている最大の課題のように思えてくる。
付記すれば、キリスト教は5世紀にも、451年に開かれたカルケドン公会議の後、コプト教会などが離脱するという悲しい経験もしている。
教派を超えた協力を
この大きな課題に、小さな私はどこから取り組んでいけばよいのか。そう思い悩むとき決まって思い浮かべるのは、「種蒔きのたとえ」(マルコ4章ほか)である。種を蒔くのは私たち人間ではなく神、キリストであり、しかもその種は既にあらゆるところに蒔かれている、ということこそが、教派を超えた協力の出発点であると思えてならない。私たちに求められているのは、種を蒔くというより、むしろ収穫のための働き手になることなのだ。そして、そのためにこそ教派を超えた協力が求められているのではないだろうか。
「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10・2)。収穫は多く働き手は明らかに足りないのだが、私たちは自らの教派に新しい人材を、と専ら願っているような気がする。むしろ、その前に、教派を超えて協力し合うことこそ考えるべきなのではないだろうか。
日本宣教500年に向けて
フランシスコ・ザビエルは、遠くヨーロッパから収穫のための働き手の一人としてはるばる日本までやって来た。そのザビエルが来日してから500年という記念すべき年も2049年にやってくる。
キリスト教一致の世紀にふさわしく、教派を超えた日本キリスト教宣教500年の年になってほしいと願っている。
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