お知らせ

せきぐち – 2012年11月号

2012年11月30日

「補い合う」

助任司祭 倉田厚

助任司祭 倉田厚秋から冬にかけていろいろな行事があり、あわただしくなりがちであります。しかも今年は信仰年という大きな課題を教皇様からいただいており、楽しみなことこの上ないけれども、頭を悩ますことも少なくないように思えてきます。

そんな折、教会にとって、キリスト者にとって、どんな生き方を目指すべきなのだろうかと思いを巡らせました。

わたしたちにとって、いつなんどきでも手本はイエス様に他ならない。イエス様の歩みはスーパーヒーローとして挫折なく、頂いた才能を発揮して一人で走り抜いたように思ってしまいがちだが、それは表層的なイメージにすぎない。
‐少し前に少し紹介した「ナザレのイエス」一人で読むのは骨が折れますけれど、何人かで集まって、読書会でもしたらいいですよ。イエスの生き方に触れることになります。

イエス様はひたすら祈り続けた。イエス様はひたすら聴き続けた。父の救いたいという慈しみを。出会う人々の悲しみ、痛み、苦しみを。イエスに出会った人々が、罪から解放され、喜ぶ声を。イエス様は「ともにある」生き方を貫いた。
どんなときも決して一人ではない。荒れ野で試みにあったとき、一人でありながらも、父への愛が溢れる。十字架の後、陰府(よみ)に下りながらも、父へのまったき信頼のうちに復活へと繋がる。
その歩みの中で、弟子たちに示し、導き、喜び祝い、後の世に、わたしたちに教会をのこしてくださった。
「ともにある」をわたしたちが生きられるように教会をのこしてくださった。
なにかを行うとき、ちょっと振り返る。

その行いによって誰を補うのか。誰か補ってくれているか。誰かとともにあるのか。
誰かの笑顔を生かすため、誰かの涙をぬぐうため、未来の笑顔をはぐくむため、想像ではなく、具体的な「顔」を思い、「生の声」を聞きながら。
自らの思いや考えをそのままではなく。ちょうど小麦が小麦粉に砕かれ、パンになるように。自分と誰かを混ぜ合わせ、神様によってパンにしていただくように。

キリスト教信仰の出発地点は、自分自身が神様に、教会に、仲間に支え、補っていただいている救いの安心であります。

神ご自身が三位一体の交わりの方。わたしたちが一人で生きられるわけもなく、わたしたちは交わりに召されています。

神様の中に入れていただく安心と、
教会家族の中にいられる安心と、
天と地との交わり、わたしたちの居場所。

神と人とともにあること、大切に。
補っていただける喜び、分かち合いましょう。

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