お知らせ

せきぐち – 2012年10月号

2012年10月30日

「十字架の向こうに光がある」

主任司祭 山本量太郎

主任司祭 山本量太郎聖マリア大聖堂の正面には、高さ16メートルの大きな十字架があり、その背面からは、薄い大理石を通して柔らかな光が差し込んでくる。関口教会の皆さんにとっては見慣れた光景、当たり前のことになっているかもしれない。

だが、意識したことはおありだろうか、この大聖堂が東向きにつくられていることを。実はカトリック教会には、地形的な制約がなければ、聖堂、特に大聖堂(カテドラル)は東に祭壇を置く形で建てられる、という長い伝統がある。東はまことの太陽であるキリストの方角と考えられ、祈る時には東を向くという習慣が千数百年前には既に根付いていたのだ。

だから、大聖堂正面の大十字架は朝、特に夜明けころが一番美しい。何回見とれたことだろう。そして、いつしか思うようになった。光は十字架の向こうからくる、と。それは希望の光だ、それはキリストの復活の光だ、と。

せきぐち2012年10月号私は今、自らにそう言い聞かせ、また、皆さんにも呼びかけたいと思っている。十字架を見つめよう。十字架から目を背けてはならない。十字架の向こうにこそ希望の光がある、復活の喜びがある、と。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と二千年前、弟子たちに言われたキリストは、今日も私たちに呼びかけておられる。そのキリストの呼びかけにこたえ、歩み始めるとき、自分にとっての十字架が何であるかが少しずつ見えてくる。そして、その向こうに光も見えてくる。キリストとともに歩む道は、必ず喜びにたどり着ける道にちがいない。

十字架とは何か。まことの神であるお方がまことの人となって生き抜かれたこと、そのこと自体がキリストにとってまさに十字架であった、と私は思う。

キリストは地上の生涯を通して、一度たりとて、神の子としての特別な力を自分のためにお使いにならなかった。公生活に先立ち、自らの空腹をいやすためには石ころ一つもパンに変えることをなさらず、最後には、神の子なら十字架から降りてこいと言われても神の子としての力を発揮されなかった。私は仕えられるためではなく、仕えるために来た、というお言葉通りに自ら生き抜かれたのである。

だれも自分で自分を救うことはできない。しかもキリストがはっきりとそれをお示しになったのに、人はむなしくもがいている。十字架がなくなれば復活の喜びが得られるといわんばかりに、自分の十字架を他者に押しつけてしまっている。

十字架なしの復活はない。十字架を通して復活へと至る。十字架の向こうに光がある。

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