お知らせ

待降節第3主日―荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ(イザヤ35:1)

2019年12月14日

天本神父

わたしたちは主の降誕を迎えるために待降節という典礼暦に入りました。ローマ・ミサ典礼書の「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」の39項によれば、「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。待降節は愛と喜びに包まれた待望の時である」と記されています。

街角にきらめくイルミネーションとともに、馬小屋やリースなども信者ではない一般のご家庭も飾られることが多いと思います。これらの目に見えるしるしを通していわゆるクリスマスシーズンを体感していくのでしょう。聖書が語る救いの訪れを観念的にとらえるだけではなく、日々の生活のなかで実感できれば幸いです。ややもすれば、単なるお祭り騒ぎのようにしか捉えることができない世情であったとしても、私たちキリストを信じる者はこの実感の中で、み言葉がわたしたちの世界に具体的な出来事として現れていく時を過ごしてゆけますように。

待降節第3主日のミサの入祭唱は「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4章4節~5節)となっています。ここから、教会は待降節第3主日を喜びの主日とも呼び、待降節の典礼色は紫色ですが、この主日はバラ色で表現していくこともできます。この喜びがどのようなものなのかを端的に表しているのが今日の第1朗読のイザヤ書の箇所と言ってもよいのでしょう。

イザヤ書は歴史的にみればバビロン捕囚前後を舞台として、荒れ野と化したイスラエルが語られていきます。普通に考えれば、そこでは嘆きと悲しみに満ちて顔をうつむくことしかできないと想像してしまいます。しかし、イザヤ書はそうではなく、今日の朗読の最後で「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(35:10)と力強く語っていきます。なぜなのかと考えたとき、聖書から離れてしまいますが、『路傍の石』で有名な山本有三の「心に太陽を持て」という詩を参考までに紹介したいと思います。

 

心に太陽を持て

 

心に太陽をもて。

あらしがふこうと、

ふぶきがこようと、

天には黒くも、

地には争いが絶えなかろうと、

いつも、心に太陽をもて

 

くちびるに歌を持て、

軽く、ほがらかに。

自分のつとめ、

自分のくらしに、

よしや苦労が絶えなかろうと、

いつも、くちびるに歌を持て。

 

苦しんでいる人、

なやんでいる人には、

こう、はげましてやろう。

「勇気を失うな。

くちびるに歌を持て。

心に太陽を持て。」

―フライシュレンによる―

 

この詩はドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンによるものを山本有三が原詩から意訳したもので、表現がかなり意図的に変更されているそうです。個人的な感想にすぎませんが、この詩を今日の朗読箇所であるイザヤ書と重ねて味わってみるとイザヤ書が語ろうとする喜びの意味が見えるように私には思えます。この詩には、たとえどんな時であっても人生を受け身で生きるのではなく、能動的に切り開いていくことができる確信が詠われています。どんな困難が襲っても心に太陽があること、どんな苦しみがあってもくちびるに歌を持てること。そのことを想像の翼を広げて味わうと、単に気概ある生き方ということではなく、自分が強く信頼できるものがあること、自分が信頼されている確かさがその背後になければ、このようなには詠えないと思います。イザヤ書が語っていく「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ」(35:1)という言葉も、単なる強がりでも理想でもなく、自分がどのような場に置かれても、その自分を支えてくれるものの確かさが、この喜び踊れという言葉の背後にあるのではないでしょうか。

わたしたちは典礼の時として待降節を過ごしていきますが、この時が名実ともに愛と喜びに包まれた待望の時となりますように。主の降誕を相応しく準備することができますように。