お知らせ

―王であるキリスト―わたしを思い出してください(ルカ23:42)

2019年11月23日

天本神父

年間の最後の主日をわたしたちは王であるキリストの祭日として締めくくっていきます。言うまでもないことですが、この王は搾取や暴力によって虐げていく王ではなく、ひとりの人間としてこの世界を歩まれたイエス・キリストが父である神と寸分違わず同一な方であることを示していきます。聖書が語っていく真の王の支配がどのようなものなのか、私たちが容易く抱いてしまう強権的なイメージを払拭していく箇所が今日の福音なのでしょう。

今日読まれたルカ福音書のこの箇所は、いわゆる天国泥棒とわたしたちが呼んでいる一人の犯罪人の姿を伝えています。この一人の十字架につけられた犯罪人を天国泥棒と呼ぶのはわたしたち日本人だけだそうです。

小学生の頃に読んだ作家の芥川龍之介の作品に「蜘蛛の糸」という作品があります。「蜘蛛の糸」に登場するカンダタのイメージにダブらせて解釈してしまっているのかもしれません。カンダタは悪に悪を重ねた極悪人でやはり地獄へ突き落とされてしまった。そんなカンダタがたったひとつ生前に目の前にいた小さな蜘蛛を足で踏みつぶさずに憐愍の情をかけたことがあった。それゆえ、極楽から蜘蛛の糸がつるされてこの極悪人に救いの手がさしのべられたという話です。結局、カンダタは自分だけが助かりたいという思いに固執したがために、せっかくの救いの糸が切れてしまったという結末を迎えてしまいます。仏教的な人間観がそこには色濃く反映された人の浅ましさを語る作品にもなっているようです。

このカンダタと共通した見方のなかでこの福音書で語られているこの犯罪人の姿をみてしまうと、天国泥棒という表現になっていくかもしれません。しかし、この天国泥棒という言葉の背後にある考え方というものをつきつめていくと、結局は今日の福音で前半に語られている3種類の人たちと同じ発想にいきついてしまうようにも思います。

3種類の人とは、議員たちであり、兵士たちであり、十字架にかけられていた二人の犯罪人のうちのひとり。彼らはイエスをあざ笑い、侮辱し、ののしっていく。彼らが共通して言う言葉は「自分を救ってみろ」。貧しい人、苦しんでいる人に救いをもたらしたメシアなら自分を救えるに決まっている。自分を救えもしない奴がメシアであるはずがない。そんな見方がこの前半で語られています。

どんなに理不尽な状況であったとしても、それはあなたの現実でしかないのだから、そこからなんとか抜けだそうとして頑張って努力しないといけない。そんな意味合いで見たときにイエスに向かって「わたしを思い出して下さい」と言う一人の犯罪人を、言葉が悪いかもしれませんが、最後の最後にイエスに体よく擦り寄って天国への切符を手にいれるために努力した人間であるかのように解釈してしまう。そこには悟りを求めるように、救いを求める姿のなかにわたしたちが自分たちの手でなにか頑張って勝ち取らないといけないというメッセージのように解釈してしまい、そうした解釈のなかで天国泥棒という表現を結びつけてしまったら、この福音書のメッセージとは明らかに違うものになってしまいます。

「わたしを思い出して下さい」と言う犯罪人に向かって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語っていくこの御言葉がとても大切なメッセージになっていきます。そこにあるのは、わたしたちひとりひとりが本当に神に向きあっていくとき、わたしたちがどのような過去を引きずろうとも、どのような現実におかれようとも、このわたしたちひとりひとりをかけがえのないものとして、受け止めて下さる方がイエスであり、わたしたちが信じる神であるということ。神がこのわたしたちを捨て置かれることは決してないというメッセージがここで語られています。

ともに楽園にいるという言葉は創世記の創造物語に出てくるエデンの園を思い起こせばよいのでしょう。楽園は単に天国という意味合いなのではなくて、神が喜んでともにいて下さることの意味合での楽園と捉えられるとよいでしょう。わたしたちが神とのつながりをしっかりと認識したとき、私たち自身は自分が置かれている現実的状況の前にへこたれそうになったとしても、そのわたしをしっかりと認めてくださる方がいること。わたしたちの人間らしさはたとえ十字架という最後の凄惨な時を迎えても、神の前にあるならば、その人間としての尊厳は決して損なうことがないということ。裸のありのままのわたしが神につながっていったとき、十字架の時は、今日という神と共にいる時に大きくその意味を変えていく。そこに十字架につけられた犯罪人の一人とイエスのやりとりを見いだせるのではないでしょうか。教皇フランシスコとともに、王であるキリストを祝う私たちは、イエスがわたしたちひとりひとりをみなしごにはさせない決意のうちに歩まれたことを思い起こしていきたいものです。そして、イエスのみことばによって、絶えず新たにされていくことを確信しながら、「わたしを思い出してください」とわたしたちも祈りのうちに告げていくことができますように。

 

天本昭好 神父