お知らせ

イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人であった。(ルカ17:16)

2019年10月12日

西川神父

当時のユダヤの人々にとってサマリア人は同じイスラエルの民、同胞と考えることはできなかったようです。歴史的に見れば、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされた後、アッシリア王によって、バビロンや他の地域から連れてこられた異民族が占拠しているのがサマリアでした。そこでは、イスラエルの民が信じている唯一の神である主を畏れ敬うものの、それまで住んでいた地域の風習にならって他の神々に仕えていたと記されていきます(列王記下17:24-33)。バビロン捕囚から戻って帰還した者たちにとってエルサレム再建は自分たちの悲願に他なりません。しかしサマリアに住んでいる異民族が妨害してくる様子をエズラ記、ネヘミヤ記が語っていきます。敵としての異民族、すなわちサマリア人の姿がユダヤの人々にとって歴史的記憶として刻まれていると言っても良いでしょう。

今日の福音の中でイエスはそんなサマリアとガリラヤの間を通られていきます。そこには目には見えない、しかも越えることができない壁があったと言っても言い過ぎではありません。わたしたちの世界はその壁よって守られていく論理のなかでしか語れない世界なのでしょうか。イエスのエルサレムへ上る旅は壁によって守られた単一の世界が私たちの世界ではないことを教えてくれています。それが今日の福音です。

今日の福音とともに第一朗読でアラムの王(シリア)の軍司令官ナアマンの出来事が語られていきます。彼もまた重い皮膚病を患っていました。この第一朗読の直前の箇所で預言者エリシャは彼に使いを送り、ヨルダン川で七度身を洗えば、体が清くなる旨を告げていきます。それにナアマンが怒ってこう告げていきます。

「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」(列王記下5:11-12)

ナアマンにしてみれば、神の業を奇跡として自分自身が目の当たりに体験してはじめて納得できたことでしょう。だのに、自分の故郷よりも見下しているイスラエルでナアマン自身が告げられた言葉どおりに何故従わなければいけないのか憤ってしまいます。単にヨルダン川に入って身を洗うという誰もができてしまうような特別大変なことではなかったことも関係するのでしょうか。自尊心や社会通念に縛られ、人間の論理ですべてを当てはめてしまう私たちの姿に重なっていくことでしょう。ただ、ナアマンは家臣の勧めもあって、告げられた言葉を受け入れた時のことを語るのが今日の第一朗読の箇所となっていきます。

この第一朗読が今日の福音をよりよく理解していく鍵となっていきます。イエスの元に来なかった人たち、文脈からユダヤ人であったと推測できる他の九人はどうしたのでしょうか。彼らもまた自らがイエスの言葉通りに実行し、重い皮膚病という汚れから清くされて元の健康な状態になったはずです。福音はその人間的な喜びなどは伝えていません。伝えていくのはイエスの足元にひれ伏して感謝したのがサマリア人だったということだけです。ここで使われていく感謝するという動詞は、私たち教会が大切にしている聖体の秘跡、感謝の祭儀(ミサ)の元の言葉,エウカリスチアに連なる動詞です。その意味するところは何でしょうか。名詞で考えれば、より良い恵みという意味です。動詞であるということは動きがあるということ。自分に与えられた神の恵みにしっかりと向き合い神に自ら応えていくことを意味しています。単に内面的な心のあり方だけに重きが置かれるような言葉ではありません。自分の思いを他者である神に向かって投げだしていく様がこの感謝という言葉の意味に含まれます。その時、イエスは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げていきます。

わたしたちは汚れと清さのなかで色分けされ分断されていく世界に生きて終わるのではなく、イエスの元で立ち上がった時、この世界がどうしようもない変わることがない世界なのではないことを福音は語ろうとしているのでしょう。他の九人はイエスの元で立ち上がることができずに、元の自分たちが縛られていく世界に戻ってしまったのかもしれません。汚れという分断され隔てられた壁によって生きにくくされた状態から立ち上がっていくことができたのがサマリア人であったことは、神の恵みがどのようにこの世界で現わされるのかということをわたしたちに教えています。

 

天本昭好 神父