お知らせ

主の受難とは

2019年04月13日

三田助祭

[福音 ルカ23:1〜49]

なぜイエスはわたしたちの罪のために、死にそうになるまで鞭で打たれ、十字架を担がされて、その上に釘付けになり、殺され、そして陰府に下り、三日目に復活されなければいけなかったのでしょうか。わたしたちを救うためと教えられても、まさかこんな苦しみ方が本当に必要だったのでしょうか。この苦しみ方はオーバーで、わたしたちにとってプレシャーがかかりませんか。有難迷惑ではないでしょうか。

エゼキエルの予言にこうあります。「ティルスの君主に向かって言いなさい。『お前の心は富のゆえに高慢になった。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。 お前を陰府に突き落とす。』」(28:1ー8)

神は「高慢」な人間を罰として「陰府に突き落とす」のです。イエスはわたしの罪に伴う罰をご自分で受けてくださいました。 わたしたちが三位一体の神と和解できるために。

公教要理ではキリストが死に、過去に死んだ人を救うために「陰府に下り」、三日目に復活したと学びました。ですがわたしは、イエスが私の罪のために御父から離脱させられて陰府に突き落とされたと考えます。これが高慢なわたしが受けるべき罪だったのです。

罪中毒で罪を理解していないわたしが「イエスがわたしのために受けてくださった罰はひどすぎる」とは言えません。「有難迷惑だ」なんてとんでもない。

四旬節の残りの日々、キリストが贖ってくださったわたしたちの罪の重さを考え、感謝して二度とこのような罪をおかさないように祈りましょう。

 

(注)高慢とは心の中で「自分が優れていると思い、人を馬鹿にすること」で、傲慢とは高慢を行動に移すことです。

 

三田一郎 助祭

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