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人の子が来るとき、地上に信仰を見出すだろうか
2016年10月15日
長い見出しです。聖書はもっと意味深で、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」となっています。「果たして」と言われると、殆ど信仰がないと言われているように聞こえ、寂しくなります。それほどわたしたちの信仰は頼りない、弱々しいものなのでしょうか。
今日の聖書でイエスは、「気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とあります。わたし自身のことを振り返ってみると、希望の無さそうなことや困難に思えることは、意外とあっさり諦めたり、口先だけで祈っていることがあり、自分を戒めることがあります。修道者としての自分は、何よりも神の思いを生きる者として、祈りの人でありたいと思っています。「気を落とさず、絶えず祈ること」は結構大変な注文で、神さまから忍耐と絶えざる努力を求められていると感じます。
わたしが今一番心にかけて祈っていることは、世界的な規模で起こっている難民問題です。住む家が壊され、自分の国を追われた人々が国境を越えて流浪の民となり彷徨っている姿には、胸が痛みます。多くの場合、難民は国家権力や民族間の紛争などによって起こるので、わたしの小さな祈りはかき消されてしまったように感じます。それでも、難民問題のために昼も夜も祈らなければいけないと思っています。自分の家を後にして国境を越え、ボートに乗り地中海の波間を漂い、小さな子どもを抱えて歩き続けている人々が今もいること、目的の国にたどり着いても受け入れられずに送還される人の悲しみを思うとき、涙が止まりません。祈れば神さまがこの事態をすんなり解決してくださると言えるほど、わたしは楽天家ではありません。しかし、一人ひとりが心を込めて神に祈り、叫びをあげる時、神は何らかの解決の道を拓いてくださるに違いないと確信し委ねています。
いつの時代にも大きな問題から身近な問題に至るまで、人々は悩み、解決に心を砕いて来ました。必ずしも結果が期待したものではなかったかもしれません。それでも、真摯に取り組んだその過程では、神さまと共に歩んだ苦しみや痛み、喜びがあったことでしょう。これこそ祈りだと思います。神に委ねながら生きた人間の生きざまは信仰の表れそのものです。わたしは、「地上に信仰は見られる」と信じますし、どんな時にも気を落とさずに絶えず祈り続けたいと思います。
Sr.品川ヨシ子
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