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すべての人の目がイエスに注がれていた

2016年01月23日

シスター品川

少しばかり大げさな感じがします。そのナザレの会堂に何人いたか分かりませんが、すべての人の目が注がれる、という程の状況だったのです。わたしの身の回りの有名人の講演会などでも、同じようなことが見られます。よほどイエスは待たれる人だったのだと思われます。ナザレの人たちにとってみれば、昔ここで育ったイエスが成人して、錦の旗を着飾って帰って来たのですから、我も我もと、押し掛けて、会堂は一杯になっていたことでしょう。そんな状況なら、息をのんで、イエスの第一声を聞こうとする、会堂内の期待に満ちた雰囲気もよく伝わってきます。

ところで、わたしたちが同じような場に置かれていたらどうでしょう。好奇心いっぱいの表情を見せることもなく、誘われたら行こう、という情熱もないので、もやもやとした気持ちで集会を見送ってしまいそうです。このエネルギーが出てこない原因は一体何でしょう。

時々、スポーツ番組をテレビで観ることがあります。いつも驚くことですが、観客というか、サポーターの多いことです。何万という人が、一つの球をめぐって投げる、走る、蹴るという選手の動きに引き寄せられ、吸い込まれているのです。その健康的な表情や動きには、わたしでも魅せられます。これだけ人を引き付けるものは、どこから来るのでしょう。

第一世界の教会は、今、大きな曲がり角に来ています。司祭志望者も、修道生活への志望者も激減し、信徒自身も初めの頃の熱心さを失いつつあると言われています。すぐに言われることは、「数の問題ではない」と言われますが、ならば、質はどうですか?わたしの独断と偏見からすると、質が特別上がったとは思えません。教会2000年の長い歴史は、多くの曲がり角を曲がり、危険に満ちた中を聖霊に導かれてここまで来ていることは誰もが認めます。今日のように、モワッーと真綿に包まれ、内側にあるはずの力が湧いてこない、身動きの取れない、窒息しそうな、それでいて確実に身が削られていると感じる原因をしっかり突き止め、対策を練る必要を感じます。
「すべての人の目が、イエスに注がれていた。」 どうしたら、このことが現実になるのでしょう。
今年の課題です。

 

Sr.品川ヨシ子

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