お知らせ

途中で何を議論していたのか

2015年09月19日

シスター品川

イエスの弟子たちは、旅の間に口角泡を飛ばす議論をしています。素朴な彼らの関わりをうらやましく思います。 

先日、家族の墓参の機会がありました。兄は70歳で数年前に、弟は今年初めに67歳で亡くなりました。二人の間にサンドイッチのように育ったわたしは、兄弟を失うという複雑な寂しさを味わいました。兄弟の多いわたしには、まだ元気な兄も姉もいます。しかし歳が離れているので関係も薄く、亡くなった二人に比べると兄弟としての味も幾分か違います。わたしを挟んでいた二人の味が濃いことに改めて気づきます。それは当然なことです。子どもの頃には明けても暮れても、毎日本気で喧嘩をしたり、仲直りをしたりの連続でした。それは本音のぶっつかり合いで活き活きとしたいのちの躍動感がありました。勿論いつまでもそうあるはずはないのです。 

今は別々の真新しいお墓に、一人づつ納まっている二人の墓前に立って考えたことですが、与えられていた共通の時間の中で、大人として、もっと深い出会いをしておけば良かったという後悔でした。兄にも弟にもそれぞれに家族があり、遠慮もあり、わたしの時間の制約もあって、度々訪れて会話を楽しむ機会も作らなかったこと、それ以上に、本気で議論する気にもならなかったことなど、過ぎてしまった時間も関わりも、もう、取り戻せないことを今更ながら残念に思いました。 

イエスは、エルサレムへ向かう旅の途中で、弟子たちは誰が一番偉いかという議論をしていたために「途中で何を議論していたのか」と聞かれます。そこから導き出される結論は「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。….」とあります。イエスの弟子たちは、エルサレムへの途上でとんでもない本音の議論をしていました。人間関係は建前の付き合いではなく、本音の議論をする時に、自分にもイエスに出会えるのだと分かります。

 

Sr.品川ヨシ子