お知らせ

聖金曜日 説教:西川哲彌

2017年04月14日

2017年4月14日 関口教会

第一朗読  イザヤ52・13-53・12
第二朗読   ヘブライ4・14-16;5・7-9
受難の朗読  ヨハネ18・1-19・42

 

受難の主日からはじまり、聖なる過ぎ越しの3日間まで、岡田大司教様が通して主司式をされるという、皆様はピンときていないかもしれませんけれども、たいへんめずらしいことで、大司教様が東京大司教区に就任されて16年が過ぎ、17年目になられますが、はじめてのことであります。大司教様にとっても嬉しく、特に古郡神父様は、新しく典礼の所作が改正されていく中で、きちんとそれをとらえて、教区の典礼係でもあるので、いろいろな大きな儀式の式典長をしてくださっていて、懇切丁寧に大司教様に説明申し上げ、きちんと儀式書通りの典礼が行われております。この典礼は、全世界同じ典礼が行われているということは不思議なのですが、各国語で行われながらも、同じ儀式書に従って行われていることを嬉しく思います。わたしたちがあずかっている、まったく同じことを全世界中13億のカトリック信者の中でこの聖週間の典礼にあずかる、またごく一部かもしれないけれどもでもやはり同じ典礼にあずかっているということはすばらしいことです。このみことばは、きちんと位置付けられて朗読され、受け止められているということの大切さをしみじみ感じております。

さて、この受難の朗読をお聞きになって、ちぐはぐな感じがしますが、わたしたちは、この群集心理でどんどんどんどん持っていかれて、「十字架につけろ! 十字架につけろ! 」と結局、「王様はローマの王しかいない」とまで言わされて、気がついてみたら、大切な大切な方を犯罪人として、しかも反逆罪のような犯罪人として十字架につけて殺すという、このなんとも言えない「え~」ということが目の前で行われていく。それをわたしたちが、ああ、そうか、一つの宗教かと言えないのがわたしたちの立場であります。わたしたちが寄って立っているこの主を十字架につけたということは、わたしたちの信仰からすれば、ほんとうはわたしがつけられなければならない十字架、イエス様のそばにいた二人の盗賊、3つの十字架の両脇にいた二人の盗賊は自分の罪で十字架にかけられた。しかし、イエスさまに罪はない。ピラトでさえもイエスさまの顔を見て、これはとんでもない、反逆罪でもなければ、そういう道徳的な罪を犯している者ではないということを見抜いている。でも、流れはそのまま「十字架につけろ!十字架につけろ!」となっている。そして、わたしたちの信仰は、実はあの十字架につけたのは、わたしたちである、わたしである。わたしの罪の身代わりとして十字架におかかりになったという信仰であります。ですから、わたしたちは、人の罪をおまえが悪いというふうに言えない、だんだん手が下りてしまう。そういう信仰であります。そして、決して自虐でなく、悪いのはわたしだと。この世間で悪いのはわたしだと言ってしまったら終わりだということはわかっています。やたらにわたしが悪かったなどと言ったら、交通事故でも保険は全部こちら側が被らなければならなくなります。でも、わたしたちの根底、こころの底ではわたしは人を悪いと言えるような者ではない、なぜならば、さんざん悪いことをやってきた。一番悪いことはイエスさまを十字架につけたことだと。このさんざん悪いことをやってきたということは、幸いにも若い方もいらっしゃいますが、年をとって齢、70歳を過ぎ、75歳を越え、80歳に手が届くと、自分の生涯がうしろに見えてきて、もちろん良いこともやったかもしれない。喜ばれることもやったかもしれない。でも、ほんとに悪いことをしてきた。愛さなければならない者を愛さなかった。手を出して使わなければならないことをやらなかった。そういうことをいくつもいくつもやってきた。年をとるということはよいことです。若い方は全然そういうことを感じないかというと、そうではなく、若い方も「いや、ほんとにわたしもあそこにいたら、同じようにいじめに加わっていただろう」と思うでしょう。あの子が殺されたことは自分の胸も痛いと思わせる、それがわたしたちの信仰です。おまえが悪い、わたしは悪くないという気持ちから、だんだんわたしが悪かったかなと思うようになり、わたしが悪かったのだという、ほんとにいけないのはわたしだと言える信仰は、このイエスの十字架をいただいているわたしたち、ほんとうにすばらしい。主がわたしたちの身代わりとして、先に十字架にかかってくださった。

去年、サミットが日本で開催された際、アメリカのオバマ前大統領は広島に来て、あの原爆ドームの前に立ちました。そのニュースを聞いてから、背中が寒くなるくらい、何かあるかなと思い、期待しておりました。核はもう人類から追放しようという大統領でしたから、何か言ってくれるかと思っていました。それは、この一発の、しかも実験のような大統領の権限がないような所で、学者と軍人が組んで実験をやって、二つのちょっと種類の違う原爆を落とした。広島と長崎、70年経ってもほんとうに傷ついています。そして、焼け野原になった写真を見て、足が進みません。オバマ大統領は「申し訳なかった」とひとこと言ってくれるかなと思ったのですが、それは出てきませんでした。わたしたちもさんざんなことをやってきたのですから、どこかで申し訳ないという気持ちを捨てたら、わたしたちのアイデンティティーはなくなってしまう。わたしたちの信仰は、そこまで広がりを持っているということを確認しておきたいと思います。

 

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