お知らせ

受難の月曜日説教(岡田大司教)

2017年04月10日

2017年4月10日、関口教会

 第一朗読  イザヤ書 42:1-7
 福音朗読  ヨハネによる福音書 12:1-11

(本文)過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

(説教)
昨日わたしたちは主の受難の主日を記念しました。

今日は受難の月曜日です。本日の福音朗読、ヨハネの12章は、過越祭の六日前にベタニアで起こった出来事を伝えています。それはイエスがよみがえらせたラザロの姉妹のマリアが非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪で足を拭うった、という出来事です。女性がイエスに香油を注ぎ塗るという、似たような話は他の福音書、マタイ、マルコ、ルカも伝えています。

この出来事を見ていた弟子のイスカリオテのユダは言いました。

「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12・5)

一デナリは当時、人が働いて得る賃金、日当にあたる金額でした。ですから300デナリと言えばほぼ一年分の収入にあたる、かなり高い金額になります。このユダの言葉には、なるほど、と思わないわけではありません。しかし、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)とヨハネ福音書は語ります。

ユダはイエスから信頼されて財布をあずかり、お金の出し入れを任されていました。300デナリが欲しかったのかもしれません。この時イエスは彼女をかばって言いました。

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネ12・7)

イエスの十字架の時が迫っていました。マリアはそのことを感じていたのでしょうか。マリアはイエスに香油を注ぎ、自分の持っている最も大切なものをイエスに献げて、イエスの葬りの準備をすることになったのです。

この場面からわたしは、彼女のひたすらなる清い思いを感じます。なりふり構わずにイエスの足を髪で拭うというこの行為は非常識と思われました。しかし彼女は自分の行いが周りにはどう映るかということなど全く気にはしていませんでした。

他方ユダの態度はマリアとは対照的です。ヨハネ福音書は、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12・6)と述べています。彼は盗人、ごまかす人、うわべは貧しい人を思いやるように装っているが心の中は強欲な人、とされています。

今日、聖週間の月曜日、復活祭へ向かって歩むわたしたちの心はどうでしょうか。わたしは、自分自身についていえば、ユダの心がわからないわけではない、ユダの心が自分にもある、と感じます。マリアの清い心に惹かれながら、ユダの心との間で揺れているような自分を見ます。

 

乱れた心を神が浄めてくださいますよう聖霊に祈ります。

 

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