お知らせ

主の晩餐夕べのミサ(古郡忠夫神父説教)

2017年04月13日

2017年4月13日関口教会

ヨハネ13・1-15

今日はこの後、足洗いの儀式を行います。今、聴いた福音。イエスは最後の晩餐のときに、12人の使徒たちの足をお洗いになりました。イエスはこのとき、裏切るユダの足も洗っていますけれど、ユダを含めて、使徒は全員男性でしたから、教会は伝統的に男性の足をこの聖木曜日に洗ってきました。フランシスコ教皇が足洗いに関していえば、兄弟愛を持って仕え合うというところに中心が置かれるべきで、男性であるとか、女性であるとか、そこに重点が置かれるべきではないと教令を発布してからは、女性の足も洗うことが可能になったわけですが、いずれにしても教会の記録によれば、794年のトレド公会議では、聖木曜日の日に儀式として既に足を洗うことが奨励されていますし、その後、中世を通して、だんだんと儀式として整えられてきて、福音朗読の後、司祭の話の後で洗足式が行われるようになったのです。

とっても恥ずかしい話ですけれど、こないだわたしとっても足の臭い日があったのです。それは、叙階式の日です。3月20日に、この大聖堂で二人の新司祭が誕生し、教会は喜びに包まれましたけれど、わたしその日とっても足が臭かったのです。叙階式はお昼の2時から始まりましたけれど、わたしは大司教さんのミサの式典係ですから、9時に大聖堂に来て、準備をしていたのです。神学生と、司祭になる二人が9時半に集合することになっていましたから、その前の9時に来て、必要なものを準備していたのです。9時半に神学生、司祭になる二人が来てからはパイプ椅子をカテドラルの職員さんとともに全部出し、そして10時に関口教会の侍者たちが来てリハーサルを行ったのでした。そして昼の2時から、叙階式が始まると、二人の新司祭の門出の日に大きなミスがあってはいけないと緊張し、そして、基本的にわたしは 式典長として大司教さんの隣でずっと立っているわけですね。この中の多くの方が叙階式に参加されていたと思いますけれど、大司教さんのお説教の間なんか皆さんは座って聴いているわけですが、わたしはずっと近くで立っているのです。叙階式が終わったあと、新司祭の泉神父さんを胴上げしたって聞いて、わたしも胴上げしたかったと思った訳ですが、わたしはというと、ご聖体を聖櫃にお戻ししようと思って、聖堂に入ったら、西川神父さんが一人で黙々とパイプ椅子を片付けていたんです。西川神父さんごめんと言って、喜びの空間に行っても良かったのですが、まさか主任司祭を見捨てることもできず、パイプ椅子を一緒に片付けて、パーティの会場のケルンホールに行ったのでした。そして、パーティの後、新司祭たちが、一緒に神学校で生活した神父や神学生たちを集めて、護国寺でパーティの二次会をしてくれたので、わたしはそこに行ったんですね。

それまでは良かったんです。同じ釜の飯を食べ、苦楽をともにしてきた仲間を祝って、そこまでは良かったんです。実は、その後、関口教会の教会学校の一年間お疲れ様会が今度江戸川橋の方であって、わたしは新司祭たちのパーティを途中で抜けて、そっちにも出かけて行ったんですね。お疲れ様会は中華料理屋で行われていて青年リーダー、保護者リーダーの方たち20人近くが集まっていたんですけど、椅子に座った瞬間に、尋常じゃない臭いを感じたのです。まさか、嘘だろと自分の鼻を疑いましたけれど、やっぱりそう。その臭いはおよそ12時間、緊張の中で革靴を履き続け、蒸れたわたしの足から放たれていたのです。目の前には歳もあまり変わらない保護者リーダーの方たちがいらして、本当に申し訳ありませんという気持ちでいっぱいでした。ある瞬間、保護者リーダーの顔が歪んだような気もいたします。自分で自分が臭いと思うということは、他の人からしたらもっと臭いのです。本当にごめんなさいという気持ちでした。でもそのとき、「古郡神父さんの足、ちょっと臭いますよ」とは誰も言わず、笑顔で一年間の思い出を語ってくれたのでした。

このとき、皆さんは薄々臭いなと思いながら、きっとわたしという人を受け取ってくださったのだと思います。古郡神父も今日はがんばってたもんね。そんな風に受け取ってくださったのだと思います。

今日の福音の中で、ペトロがイエスに足を洗われているとき、どんな気持ちだったでしょう。一日動き、一日生きた足を洗ってもらったその気持ちはどんな気持ちだったでしょう。こんなわたしを、こんな汚いわたしを丸ごと受け取ってもらえた、そういう喜びでいっぱいになったのではないでしょうか。

イエスは「どんなあなたでも大切だ」、「どんなあなたをもわたしは受け止めているよ」、そのように足を洗うことで思いを伝えた、これがイエスの最後の遺言だったのです。ペトロは共観福音書の中で、鶏が泣いたときに、激しく泣いたと伝えられています。このイエスの最後の食事のまなざしを思い出して、激しく泣いたのです。

どんなあなたでも愛している。このミサに集まっているわたしたちも、このイエスの思いの中でここに招かれたのです。最後の晩餐の型取りを生きるわたしたちも神様の思いを受け取りながら、そして、お互いを受け取り合うように招かれています。わたしたち一人一人が神様がご自身を与え尽くされたそういう重みのある存在だ、愛し尽くされて命を与えられたそういう重みのある存在だということを受け止めながら、お互いを受け取り合って生きていくことができますように、心を合わせてこのミサで祈りたいと思います。

少なくとも自分を受け取ってもらったわたしは、今誰かを受け取りたいそのように思えているのです。誰かの愛が、優しさが、人を変えていく。このようにしてキリストの光が闇を明るく照らし、やがて世界が輝いていくのです。

講座のご案内

ー2024年度の講座案内についてはしばらくお待ちくださいー