お知らせ
週報No.402-2018年8月5日(年間第18主日)
2018年08月04日
1.“学びと祈りのつどい“のお知らせ
マリア会では下記により“学びと祈りのつどい”を開催します。
8月5日、12日の8時ミサ後から10時ミサ前まで聖堂入口で申し込みを受け付けますのでよろしくお願いいたします。
- 日時:9月1日(土)10時30分~16時30分
- テーマ:「復活のイエスとの出会い」
- 指導:森一弘司教
- 場所:真生会館(詳しくは受付、事務室にあるチラシをご覧ください)
2.マリア茶房のお休みについて
8月のマリア茶房をお休みします。
3.聖母被昇天ミサ後の納涼会への献金・献品のお願い
今年も運営委員会主催の納涼会を韓人教会との合同で開催いたします。献金・献品(ビール券、おつまみ等)を8月5日、8月12日の10時ミサ前後にエントランスホールで受け付けますので、ご協力をお願いいたします。なお、当日14時から20時まで飲食関係の準備と会場設営のお手伝いを募集していますので、併せてご協力をお願いいたします。
4.西日本豪雨災害に対する救援募金について
このたびの西日本豪雨災害による被災者の救援活動を支援する募金を行なっています。皆さまの献金はカリタスジャパンが被災地の教区と連携して推進する救援活動のために活用させていただきます。聖堂入口で受け付けていますので、ご協力をお願いします。(7月15日と22日の献金、合計87万311円は7月24日カリタスジャパンに送金させていただきました。)
5.教会会計事務について
7月より会計事務の一部を多田享功氏(公認会計士・税理士)にお願いする事になりました。勤務時間は、第2、第4日曜日11時から15時、及び平日1日です。活動費等の請求は原則として上記の日曜日の時間帯にお願いします。多少不便になるかと思いますが、ご協力のほどよろしくお願いします。
6.お水のサービス開始のお知らせ
福祉部では暑さ対策として10時ミサ後、関口会館エントランスホールでお水のサービス行っていますので、ご利用ください。
8月5日の予定
長寿のお祝い会実行委員会(10時ミサ後、集会室1)
8月12日の予定
聖歌隊練習(10時ミサ後、大聖堂)
その他の予定
平和旬間2018 (8月6日(月)~15日(水))
平和巡礼ウォーク(8月11日(土))
平和を願うミサ (8月11日(土)、18時、大聖堂)
司祭短信60
先週、広島に帰ってきました。ほんと、久しぶりです。今回は、広島教区の白浜司教様から、友愛の家のことで、覚書を交わしたいから帰って来てほしいということでした。西日本豪雨で、実家のある海田町の隣の町、その隣の町が死者を出すほど被害を受けているとのことでしたので、そのことも気になっていました。一晩実家に泊まって、翌日広島の司教館で、教区として「友愛の家」を自由に使ってくださるという覚書を交わしました。時々、休みを取って実家に帰り、戸を開けて空気を入れ替え、ミサを捧げ、庭の草を取ったりしていました。誰もいない家なのですが、ホッとできる里(さと)でした。
私(わたし)ごとですが、広島の実家は、妹文子と父が「友愛の家」という看板を下げて家そのものを解放し、どなたでもとどまり、泊まることができる家としていたのです。妹といっても養女として西川家に入ってくれたので不思議な家族でした。私は東京の教会で司祭として働き、思い出したよう実家に帰っていました。
友愛の家も30年近く続けていたので、いろんな方が利用してくださっていたようです。主キリストが結んでくださった父と妹の輪に、どれだけの方々が癒され励まされてことでしょう。シスター、司祭が入れ替わり立ち替わり、寄って、祈り、食べて身も心もいっぱいになっていたようです。「神父さんのご実家の友愛の家に泊めていただき、本当に楽しく過ごさせていただきました。今度広島に帰られる時、お父さんと文子さんに深くお礼を言っていたとお伝えください。」と、いろんな方に言われ、すごいことをやっているんだなー」と思ったことが何度もあります。
「〇〇さんからよろしく伝えてください」と頼まれたよと言ったら、「私は、布団を太陽で干し、洗いたてのシーツで休んでもらい、庭で採れた野菜と瀬戸内で獲れた魚を食べてもらっただけよ」と答えていました。それが最高のもてなしだったのだと思います。「小さく、小さく生きるだけ、それが私たちのモットーです」とも言っていました。
父源太郎が、2004年の8月に90歳で帰天し、妹文子が一人で友愛の家の看板を守っていました。父のいない友愛の家はどんなにか寂しい想いだったでしょう。その寂しさを電話で漏らしていました。でも、友人とのやり取りの中で、自分のやり方を模索しているようでした。しかし、一年経った頃、あれだけよく食べていた妹が、すっかり食欲を失くして「食べられん、食べられん」というようになったのです。「病院に行って診てもらいなさい」と電話で言っていましたが、実際ほんの少し口に入るだけのようで、本当に食べられないようでした。地元の病院には行きづらいというので、東京の病院で診てもらいましたがはっきりせず、大腸の内視鏡検査では何も発見できなかったのです。とりあえず撮ってみましょうというCT検査で癌の塊が発見され、子宮癌の末期という診断が下されたのです。
壮絶な抗がん治療の末、2007年5月、父を追うように旅立って行きました。61歳でした。それ以来、友愛の家は無人の館になってしまいました。時々、私が帰って掃除をしたり草取りをしたりしていましたが、無人の館に変わりありません。今年の5月、白浜司教様からお話があって、教区として使わせほしいとのリクエストがあった時、私はどうぞお使いくださいと申し上げました。父と文子の「友愛の家」は、その日に終わったのです。今回の「覚書」それを確認するものでした。
隣の町が水害でめちゃくちゃになっていると聞かされながら、後ろ髪を引かれる思いで東京に辿りつきました。
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