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せきぐち – 2011年12月クリスマス号
2011年12月21日
「喜ぶ」
助任司祭 倉田 厚
主の降誕おめでとうございます。
クリスマスは「救い」であるイエスがわたしたちの内に生まれてくださったことを、知り、感謝する。この記念すべき日がなければ、わたしたちは人生の指針を見出せず、路頭に迷っていることでしょう。
イエス・キリストがなぜ救い主と呼ばれ、世界中のそこかしこでお祝いがされ、あまつさえ停戦までされるというのは、どういったことなのか。ご存じでしょうか?
わたしたちが生きる上で、感じざるを得ない不条理な苦しみ。不確かで、儚いもののように感じる、わたしたちの人生。
人生の意味をイエス・キリストは、わたしたちに示してくださった。教えたのではなく、我が身をもって示してくださった。
人間は愛されて生まれ、愛されて育ち、愛されて生まれていく。この世界の創造主、父である神と愛し合うために、わたしたちはこの世界を生きていく。
まったくの無力な赤ん坊として生まれ、神様がくださった家族の愛に包まれ、日々の中に働く神様の恵みに信頼して育ち、神様の導きに信頼して、十字架上で凄惨たる死を迎えた。
わたしたちが、凄惨たる闇の中を歩むとしても、そこに確かな導きがある。
不条理な世界の中に、確かにわたしたちを導く愛として、イエス・キリストは、共におられる神<インマヌエル>である。
神も仏もあったもんじゃない。こう嘆きたくなることがある、困難な日々、わたしたちに一番大切なことは、わたしを愛する父が確かにおられると信じることです。
神様は、温室ではなく、野原でわたしたちを育てます。外敵を排除することなしに、恵みを注ぐことで、わたしたちを育てます。苦しみを排除して下されば楽なのですが、一人ひとりが自由に生きるために、恵みを注ぐのみであります。
わたしたちに、いつも希望の光をくださいます。苦しみ以上に恵みをくださいます。
イエス・キリストは、その恵みの究極です。わたしたちの人生の確証。わたしたちの救い主。
明りが見えて、トンネルの終りを感じるように、イエスの輝きによって、わたしたちの人生の困難に活路が見えます。
希望が確かにあります。
喜びを見いだし、心から喜びましょう。
せきぐち2011.12.クリスマス号(計5頁)
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