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せきぐち – 2015年5-6月号
2015年06月30日
聖母月を終えて
主任司祭 山本量太郎
聖マリアの連禱
子どものころの思い出話で恐縮ですが、60年前のわが家では、聖母月に入ると晩ご飯の後、ロザリオを一環唱えるのが常でした。しかも必ず聖マリアの連禱が付け加えられ、それがとりわけ長く感じられたものでした。なにしろ、「聖マリア、われらのために祈りたまえ」に続いて、48回も「われらのために祈りたまえ」を繰り返すのです。それらが聖母への呼びかけであることは分かるものの、「象牙の塔、黄金の堂、契約の櫃…」等々、子どもの私にはほとんど理解不能。それでもようやく「平和の元后」が出てくると、ホッとして最後の「われらのために祈りたまえ」を唱えたものでした。
平和の元后
「平和の元后」がなぜ最後に出てくるのか分かったのは、それから30年も経った後になります。当時私が助任司祭として働いていた柏教会(現豊四季教会)は「平和の元后聖マリア」にささげられた教会であり、柏教会出身の幸田神学生(現補佐司教)がその由来を調べてくれたのです。
聖母にとりなしを願う聖マリアの連禱には16世紀にまで遡る歴史がありますが、「平和の元后」はずっと後になって付け加えられました。だから連禱の最後だったのです。それはまさに百年前の1915年、教皇ベネディクト15世の時でした。既に第一次世界大戦が始まっており、教皇は世界平和の願いを聖母に託したに違いありません。
その後、パウロ6世教皇も約50年前、ベトナム戦争が激化する中、1月1日の神の母聖マリアの祭日を「世界平和の日」と定め、平和の元后聖マリアに平和への祈りを願うよう呼びかけました。
ちょうど70年前
聖母月の最後の金曜日、5月29日、私は聖園幼稚園の子どもたちと一緒にルルドの前で祈りをささげました。子どもたちは、世界の平和をマリアさまにお願いしました。私はそのとき、ちょうど70年前の1945年5月26日、関口の旧カテドラル大聖堂が東京大空襲で焼け落ちたことを思っていました。第二次世界大戦が終わって70年経ったのです。昨年私たちはカテドラル献堂50年を祝いました。しかし、その現カテドラル献堂の20年前に旧大聖堂が戦禍で消失したことをいつまでも決して忘れてはならないと思います。それは平和のために祈り続けることにほかなりません。日本国内に限って言えば、戦争がないのが当たり前のように思えるかもしれませんが、ちょっと目を転じれば、決してそうではないからです。
現行の聖マリアの連願(「日々の祈り」所収)では、「平和の守護者聖マリア、私たちのために祈ってください」となっています。日々、平和のために聖母マリアのとりなしを願いましょう。
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