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子よ、何事をなすにも柔和であれ(シラ3:17)
2019年08月31日
日本語の辞書を引いてみると、柔和という言葉は、物腰柔らかで心が和む印象を与えるものとして定義されていきます。それは穏健、温厚などの言葉にも置き換えられるのでしょう。
わたしたちが一般的にこの言葉を使おうとするとき、相手の品格を褒める時や、徳を積み重ねた人のあるべき姿として語られていく言葉としてよく使っていきます。
この柔和という言葉が聖書で用いられていくとき、今日の第一朗読の箇所が語るように、悪に根差した者のあり方が高慢であることに対して、主に従う知恵に根差した者のあり方(霊性)を示していく言葉として考えていくといいのでしょう。聖書で他の箇所の用例を見ていくと、柔和以外に、謙遜、謙虚などのへりくだった様を示す日本語にも翻訳されていきます。ヘブライ語の語源的には苦しむという動詞、貧しいという形容詞にもつながる言葉がこの柔和という言葉です。そのため、普段使っている日本語の意味内容だけで理解しようとすると、よく意味が汲み取れない言葉のひとつといってもいいかもしれません。
聖書はこの柔和という言葉を二人の人物に当てはめていきます。旧約においては「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜(口語訳では柔和)であった。」(民数記12:3)と語り、新約においてはイエスご自身が「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)と告げています。このモーセとイエスの姿を聖書の物語の展開のなかで読み解いていけば、柔和、謙遜という言葉の意味を確かめていくことができます。
今日の福音(ルカ14:1,7-14)はファリサイ派の議員の家を舞台としています。宴席を主催する人に対して、あなたを招いてお返しをできない人を招きなさいとイエスは勧めています。それは単に善行としての徳を積むという道徳的勧告ではありません。わたしたちがなにかしらパーティーをしようとすれば、気心が知れていて、互いに忖度できる関係の中で楽しく分かち合い、関係を深めていくことが多いように思います。もしかすると、互いがギブアンドテイクに分かち合える関係を求めようとすれば、それができない人は除外してしまうかもしれません。私たちの間で行われる宴の席には排除の論理が隠されていると言ってもいいでしょう。
ファリサイ派の人たちがイエスに対して「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と不平を語っていくように、神のみ前に清さを保つため、律法を固く守って生きているファリサイ派の人たちにとって、汚れを持ち込む罪人と交わることは避けなければいけないことです。こうした意識をもった彼らに向かって語っていく言葉が今日の福音です。自己完結した論理の中で、それに見合わない者は排除していく人たちに回心を促す言葉、いわば、排除(exclusion)から包摂(inclusion)へと私たちの姿勢に変化をもたらす招きの言葉といってよいのでしょう。そこにへりくだる者としての、柔和・謙遜という言葉を重ねて考えてみてはどうでしょうか。現代社会の課題に向き合っていくわたしたちの在り方(霊性)を示す深い言葉の一つと言ってもいいでしょう。
天本昭好 神父
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