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マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。(ルカ10:38)
2019年07月20日
イエスがエルサレムへの旅を歩むなかで、ある村に行かれた出来事として語られていくのが、今日の福音のマルタとマリアの姉妹との出会いになります。先週の福音のおさらいになりますが、ある律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と問いかけていきます。イエスが律法に何と書いてあるかと問い返した答えが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10:27)との言葉になっていきました。その律法のことばの意味をイエスの口から具体的に語られたのが、「善きサマリア人のたとえ」であり、ひとつの出来事として、家に迎え入れたマルタの姿、主の足元に座って聞き入っていくマリアの姿がそこにあります。
聖書を神の言葉が実現していくという視点にたって見ていくと、文脈の流れのなかでことばと出来事は対応関係になって描写されていると考えることもできます。福音が物語られる時、わたしたちが日常のなかで感じる様々な思いがイエスとの出会いのなかで引き起こされ、イエスの言葉を引き出していきます。先週の福音と今日の福音はそうした視点のなかでとらえていくとよいのでしょう。
今日の福音の出来事を補足するように、第1朗読ではアブラハムがマムレの樫の木のもとで主(YHWH)に出会う場面が語られていきます。アブラハムはマムレの樫の木で出会った人たちが最初から主(YHWH)であることをわかっていたわけではありません。それゆえ、「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」と語っていきます。ここで新共同訳は「よろしければ」と訳していますので、アブラハム個人の好意のうちに旅人をもてなしていくかのような印象を受けます。しかし、口語訳聖書では「もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら」と訳されています。こちらのほうが、ヘブライ語原文に近い表現になっています。そこでは、旅人をもてなす側の好意ではなく、恵みの泉から水を汲むように、もてなす相手を通して神の恵みを受けとめていくことが語られているようです。いくつかの聖書の訳を比較していくと、この場合のように、たとえ一見素通りしてしまうような慣用表現でも、解釈していくときの理解の幅が広がっていくように思います。
このアブラハムの態度は義人ヨブのなかにも見受けられます。理不尽な出来事が重なり苦悶の中にあるヨブがビルタドから「どうして人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。」(ヨブ25:4)と言われたことに対して、ヨブは自身の在り方を長々と主張していきます。そのなかで、こう告げていく箇所があります。
「わたしの天幕に住んでいた人々が『彼が腹いっぱい肉をくれればよいのに』と言ったことは決してない。見知らぬ人さえ野宿させたことはない。わが家の扉はいつも旅人に開かれていた。わたしがアダムのように自分の罪を隠し咎を胸の内に秘めていたことは、決してない。もしあるというなら群衆の前に震え、一族の侮りにおののき黙して門の内にこもっていただろう。」(ヨブ31:31~34)
罪と咎のうちに生きていたならば、門の内にこもっていたと主張していくヨブの反論は旅人をもてなすことが、神の恵みを受けて生きていることの一つの証として語られていきます。こうした姿勢は新約においても明らかです。それが今日の福音において、マルタがイエスという旅人を家に迎え入れた出来事であり、使徒パウロの「 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」(ロマ12:13)という勧めにもなっているのでしょう。
ただ、マルタは「わたしだけに」もてなしていく役割が担わされているという心の乱れ、思い悩みによって、「マルタ、マルタ」という呼びかけにはじまるイエスの言葉を引きだしていきます。一見するとマルタに分が悪い印象をうけますが、教会がこの二人の姉妹のうちに祈りと奉仕の精神を見出すとともに、主を愛することと隣人を自分のように愛することが不可分であることを理解していく良いテキストなのではないでしょうか。
天本昭好 神父
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