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晴耕雨読
2018年04月21日
私の知り合いの司祭の話です。
K神父としておきましょう。K神父は、若い時から早起きです。家族がみんな早起きだったので、Kくんも早起き者になりました。今、後期高齢者ですが、今も早く起きます。起きない時は、病気の時ぐらいです。ともかく朝起きて散歩をします。朝の散歩が習慣になっています。祈りながら、その日のミサのみ言葉を味わいながら歩きます。帰ってきて、草取りをします。幼稚園の園庭から、聖堂に周りまで、草という草を取ります。そして、部屋に帰り、さっとシャワーを浴びて聖堂に入ります。
草がどんなにたくましいか、ちょっと手を抜くと、たちまち伸びて、そこに植えている草花を隠してしまうほどです。草花は、K神父が、種から育てたもので、自分の子供のように思っています。種を買ってきて、苗床に蒔いて芽を出させ、自力で伸びて行けるようになって、庭に植え替えたものです。可愛くて仕方がありません。
草取りで土だらけになった手をきれいに洗ってミサに入りますが、いつも土にまみれていますから、節くれだっています。働く人の手です。その手から、聖体をいただくことを、信者はなんとも言いません。むしろ、誇りに思っているくらいです。なぜなら、その手で種から芽を出した花が、園児の手で育てられ、卒園式に神様にささげられ、親の手に渡ることを知っているからです。
K神父に言わせると、土に触っている時が、一番、幸せを感じるんだそうです。この土に種を蒔き苗を植えるとぐんぐん伸びて飯を咲かせ、実が実るからです。土仕事の半分は雑草を抜く仕事で、後の半分は、いい土を作ることだそうです。堆肥や腐葉土作るのは日常の作業だと言います。土や草取りの話をしている時のK神父の顔は、見ていて微笑ましくなるような笑顔です。体全部が笑顔に包まれています。
そういえば、私たち神父は、いつの間にか、土から遠ざかってしまっています。K神父のように、年をとるに従って土に親しむのではなく、逆に、土から遠くなってしまっているような気がします。晴耕雨読と言いますが、晴れた時は、ぶらりと外に出て、土で手を汚すのも一興かもしれません。
西川哲彌 神父
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