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人間に出来ることではないが、神にはできる
2015年10月10日
今日読む福音には善良な金持ちが登場します。この人は子どもの時からたくさんの掟を忠実に守ってきたようです。彼が欲しかったのは、永遠のいのちです。永遠のいのちをいただくために、何をしたらよいかと、イエスに跪いて聞きます。彼の真摯な心が伝わってきます。
イエスの答えは、まず掟を守るようにと言われます。次にイエスが求められたのは、「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。….それから、わたしに従いなさい。」そして、聖書は続けます。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである。」(マルコ10.17-22参照)
悲しみながら立ち去る金持ちの姿と、彼を見送るイエスの口から出てくる次の言葉がこだまのように心に残こります。「財産のあるものが神の国に入るのは、何と難しいことか。」(10.23)
勿論、金持ちは神の国に入れないと言われていません。彼の心は“金”から離れることが出来なかったのです。人間が生きていくためには、“金”が必要です。湯水のようにお金を使う人も、赤貧洗うがごとしという諺どおりの貧しさを生きるとしてもお金は必要です。ましてや財産に恵まれていることは神の祝福と考えられていたイエスの時代に、全ての財産を貧しい人々に施して、貧しいイエスに従っていくことが永遠のいのちをいただくことになるとは考えられなかったでしょう。
“清貧”という言葉があります。物を持たないということではありません。物を持っても良い、使っても良いのですが、物の虜にならないことです。これはとても難しいことです。
神さまを見失わせる“物”から、いつも心を離していたいものですが、人間の弱さから、度々“物”に執着していることに気づきます。そんな時、何でもおできになる神さまの力強い助けに委ねたいものです。
Sr.品川ヨシ子
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