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エマオへの旅
2014年05月03日
イエスの復活の出来事は、弟子たちにとっても理解し難いことでした。イエスの復活のその日、二人の弟子はこの数日の出来事に深い落胆をし、エルサレムから11キロ離れた自分たちの故郷であろうエマオという村に向かい歩いていました。彼らの会話は勿論、つい先日来起こっているイエスの逮捕、死の判決、十字架を担われたイエスの姿、残酷な磔刑、そして埋葬だったでしょう。おまけに、仲間の婦人たちが安息明けの今朝、墓には行ったが遺体は見つからず、天使が現れ「イエスは生きておられる」と言った、という。何が何だか、キツネに包まれたような二人の弟子の姿を想像すると、この聖書は活き活きしてきます。その二人の心は自分たちのことで一杯ですから、一緒に歩き始めた旅人が誰か分かりません。聖書は「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と書きます。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何の事ですか」と二人に問いかけ、聞かれた弟子たちは暗い顔をして立ち止り、自分たちが体験したことの一切を話します。
イエスと二人の弟子たちとの対話を見ると、わたしたちの日常生活の中で誰かとする対話そのものです。
「何の話ですか」―――「○○○ですよ」
「わたしたちはこれに望みをかけていました…….ところが△△△が起こりました」
「ああもの分かりが悪く、……信じられない者たち……メシアはこういう苦しみ(△△△)を受けて、栄光に入るはずではなかったか」
困難な現実を受け入れることは、誰にとっても難しく苦しいことです。人生という旅には、話せる仲間が恵まれます。誰でも落ち込みます。その時、希望や失望を出し合い、分かち合い、主が共にいてわたしたちの内に火を灯してくださるはずです。自分のことで心が一杯になり、周りが見えなくなる時、失望に打ちひしがれている時、わたしたちの「心が内で燃えていた」時を思い出し、また新しく歩む勇気を持つことが出来るようにと祈ります。
Sr.品川ヨシ子
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