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群衆は言った。「十字架につけろ」
2014年04月12日
今も世界の各地で紛争が起きています。テレビや新聞を見ながら、いつも複雑な思いになります。一体、この地上から、争いが無くなる日が来るのでしょうか?
人間は、平和を求めながらも常に戦う姿勢を崩していません。全くの丸腰で何かの会見の場に立つという政治家は凡そいないでしょう。一昔前のインドのガンジーのような人はいなくなったような気がします。
恐ろしいのは、群衆の声、そのエネルギーです。まだ記憶に新しい北アフリカに起こった民主化の嵐は瞬く間に広がり、すさまじい勢いで政権を倒していきました。あれよあれよという間に飛び火していく様に、わたしは自分が子どもの頃、将棋の駒を並べてちょっと先端に触れ、パタパタと倒れて行く遊びに興じたことを思い出しました。あれは「遊びで面白かった」ですみましたが、現実には、多くの死者や負傷者を出している本物の戦いなのです。
今日読まれる「マタイによる主イエス・キリストの受難」(マタイ27.11-54)は、有名なバッハのマタイ受難曲で知られています。内容は、ローマ総督ピラトがイエスを死刑に処す判決の場面が読まれます。「十字架につけろ」の群衆の声に恐れをなし、死刑の判決を下したピラトの名前は、いつの時代でも聖書が読まれる限り伝えられることになった気の毒な人です。ピラトの気弱さは、祭司長や長老たちがイエスへの妬みから群衆を扇動し、「十字架につけろ」の群衆の叫び声に負けてしまったことによって、人類史に残る決定的なものとなりました。このような群集心理の中で大勢に蹴落とされることなく、正しいと思うことに留まり、判断を下すことが誰にでもできることではないと思います。しかし、自分の内奥に聞こえている神からの正しい声が掻き消されることがありませんように、また、いつも聴き従うことが出来るように祈りたいものです。小さな弱い一人の人間として、神に助けを求める祈りの大切さを味わいました。
Sr.品川ヨシ子
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