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父なる神の家に帰る道
2013年09月14日
“放蕩息子のたとえばなし”の中に、食べ物に事欠く状態になった放蕩息子と呼ばれる人が、飢えゆえに父親の家に帰ろうと心に決めて故郷に帰っていく場面があります。自分から出て行った父の家に、恥ずかしげもなくのこのこ帰って行けるこの人は、相当厚顔な者です。ところが、この息子の父親は「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と聖書にあります。この父親は、息子が自分の家に帰るのを、出て行ったその日から待っていたに違いありません。ボロボロになった息子の姿を我が子だと認めることが、遠くからでも出来たことからも分かり、息子の帰りを待っていた父親の心が痛いほどに感じられます。息子は自分のより所は、父以外に無いことを知っていたのです。
先日、映画「楽園からの旅人」を観ました。アフリカからの難民がボートでイタリアの取り壊される教会にたどり着き、老司祭のもと、二日間だけこの教会の中に身を潜め、聖堂内のベンチに幕屋を張りますが、保安部に追われて闇の中に、また消えていきます。新天地を求めて出て行くのです。終幕には荒い波と波打ち際の壊れた船が何を意味しているのか、気の滅入るような重い空気に包まれました。これは現実の問題です。
今日の地球上の至る所で起こっている紛争は多くの難民を生み出しています。わたしたちの先祖が楽園を追放された時から今日に至るまで続いている流浪の旅は、紛れもなく「父なる神の家に帰る道」なのです。この映画の中の老司祭は言います。「迎えてくださるかどうか...」詩人は答えます。「神は慈悲深い」と。わたしたちはそれぞれがその「父なる神の家に帰る道」を歩いています。きっと父なる神は、ボロボロになったわたしたちを喜んで迎えてくださるに違いありません。「よく帰って来た!」と。わたしはそう願っています。
Sr.品川ヨシ子
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