お知らせ

受難の火曜日(古郡忠夫神父説教)

2017年04月11日

ヨハネ13・21-33,36-38

 先月、叙階式があって二人の新司祭が誕生し、わたしたちは大きな喜びに包まれました。二人の新司祭が誕生して、わたしにとっては、はじめての後輩ができて、叙階式からいろいろなことを思いめぐらしています。

二人の新司祭を見ながら、自分がはじめて親に「神父になりたいと思っている。だから神学校に入ろうと思っている」と言った時のことを思い出していました。わたしはまず当時の所属教会、潮見教会の主任司祭に「こんなわたしでよいならば、神父になりたい。だから神学校に行きたいと思っています。」と言ったのです。主任司祭大原神父さんは「おー、よかった」と言ってくれました。でもその後で「親は何と言っているの?」と言われて、そこではじめてわたしは、親には言っていない……ということに気づいたのです。気づいたというよりは、もう22歳だったので、立派な成人だし、出家のようなものだから、親には言わなくてよいだろうと、もう、自分の人生だと思っていて、だからそのことを大原神父さんに告げたのですが、大原神父さんには、「いや、親には言ったほうがよいよ」とあらためて言われて、「まぁ、そうだよな……」とわたしは思い直して、夜に親を食卓に集めて、「話がある」と言うことにしたのです。

その夜、「実は、今日、大原神父さんのところに行った。神学校に行くから。」と言いました。「行きたいと思っている」ではなくて、「行くから、大原神父さんにも言ったから」と告げました。そうしたら、その時の母親の一言が忘れられないのですが、「そんな気がしていました」というふうに母親が言ったのです。「そんな気がしていました」。その時に、あぁ、この母親はずっとわたしのことを見ていてくれていたんだな、そして、ずっとわたしのために、祈り続けていてくれていたんだな、と思ったのです。特に親から、これになりなさい、あれになりなさいと、義務教育の中学を越えてから言われたことは一度もありませんでしたけれども、ずっと親はわたしのことを見守り続けていてくれていたんだな、そして、どういう職業に就いたとしても、本当に幸せになってもらいたいとそういう思いの中で、これまで祈り続けていてくれたんだな……祈りの中で、見守り続けていてくれたんだな、とその時に思えたのです。「そんな気がしていました」という言葉は、わたしにとって今でもおぼえている大切なことばになっています。何かを強制するわけではなく、ほんとにずっと、見守り続けてくれていた親の姿がそこにはあって、「そんな気がしていました」という言葉とともに、親がこれまでわたしをずっと見守り続けてくれていたということとわたしは出会ったのです。

今日の福音の中でイエス様は、ユダに、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言っています。イエス様は力づくでユダを従わせることはありませんでした。イエス様は、力づくで何かを従わせる、そういう方ではなくて、自由を尊重し、でも見守り続ける方。見守る愛、それがイエス様の、神様の愛でありました。何かを強制しない、でもずっと見つめ続け、見守り続ける、それが、イエス様の愛だったのです。今日の福音は、最後の晩餐の足洗いの後の場面ですけれども、ユダの足も洗いながら、ユダを受けとめて、見守り続けた、見つめ続けた、それがイエス様でありました。イエス様の愛は力づくで相手を従わせる、そういう愛ではなくて、ときにはその人に触れながら、どんな時でもあなたを見つめているよ、そういう想いの中でひたすらに寄り添い続ける愛なのであります。力づくでこっちだというふうにはしない、けれどじっとひたすらに見守り続けてくださっている、それが神様の愛で、わたしたち一人一人にもその愛が注がれているのです。ユダはこの時に、そんなイエス様のまなざしに、戻ることができなかったけれども、わたしたちは、イエス様の愛に何度でも何回でも戻りたいのです。イエス様のそれでもずっとあなたを見つめているよ……そういうあたたかいところに戻り続けたいのです。

ヨハネの福音書では、ユダが最期にどうなったか、それは、記されていません。ユダの中に、足洗いを通して示されたイエス様の寄り添い続ける愛、見守り続ける愛、その愛に一瞬でも立ち返る、そういう瞬間があったなら、きっとそこに救いがたしかにあったのではないか、神様の愛にすべて包み込まれた、そんな救いがそこには存在していたのではないかとわたしは思うのです。

今、わたしにとって一番嬉しいことは、入門講座に来られていた方が「神父さん、洗礼を受けたいと思います」と言ってくれることです。決して自分が強制して、「洗礼受けよう、洗礼受けよう」と言っているわけではなくて、でもある時に、「神父さん、わたし、洗礼受けたいと思っています」と言われた時に、やはり、今のわたしにとって一番嬉しい時はそれだなと思えるのです。その人を想い、祈っているから、毎日祈っているから、それが一番嬉しいのです。そう考えると、わたしも少しだけ神様の愛を生きられているのかなと思います。神様がわたしを愛する人に少しずつ、少しずつ成長させてくださっているのかな、とそういうふうに思います。

今日、わたしたちが何度でも神様の「あなたと一緒にいたい」「いつも見守っている」そういうまなざしに戻っていけますように、一緒にお祈りいたしましょう。